LyX(リックス)は 1995 年、マティアス・エトリッヒが大学の課題として書きはじめた文書プロセッサです。当初の名前は Lyrix で、Santa Cruz Operation のワープロと名前がぶつかったので LyX に改名されました。もっと面白いのはその後で、主な舞台が Linux だった彼は LyX の画面をまともにする道具立てを探しはじめ、翌 1996 年に KDE を立ち上げます——Linux を代表するデスクトップ環境は、LaTeX のフロントエンドを見栄えよくしたいという動機から生まれました。このページでは、LyX が「LaTeX エディタ」ではなく 裏で LaTeX を動かす文書プロセッサ であることの意味、.lyx という独自形式の中身、生の LaTeX を差し込む TeX コード(ERT)、そして誰にとって使う価値があるのかを扱います。
LyX とは何か——LaTeX エディタではなく、文書プロセッサ
LyX は自分では一切組版しません。画面上で文書を組み立て、書き出す段になったら 別途インストールした TeX ディストリビューション を呼んで PDF を作らせます。だから TeXstudio や VS Code のような「LaTeX を書くためのエディタ」とは種類が違い、位置づけとしてはワープロの側から LaTeX に手を伸ばした道具です。実際、LyX は TeX Live に含まれていません——手元の TeX Live 2024 の bin ディレクトリには lyx も tex2lyx も一つも入っていませんでした。導入の順番は TeX ディストリビューション(TeX Live・MiKTeX・MacTeX)が先、LyX が後。この順を守らないと、インストーラが「LaTeX が見つからないので出力できない」と告げてきます。
ライセンスは GPL で、Windows・macOS・Linux で動きます。2.5 系は 2026 年 2 月に出た系列で、以後も点検版が続いています。対応言語は多く、日本語のほかアラビア語・ヘブライ語のような右から左へ書く文字も扱えます。機能のなかでとくに評判がよいのは 数式エディタ で、分数・行列・総和といった構造をパレットとキーボードで積み上げられ、出来上がりの数式の質は LaTeX そのものです。逆に言えば、LyX が売っているのは「LaTeX の出力を、LaTeX の記法を覚えずに得る」という一点で、その一点がどれだけ価値を持つかで評価がほぼ決まります。
WYSIWYM——「見たままが、意図したまま」という設計
WYSIWYM は What You See Is What You Mean の頭字語で、ワープロの標語 WYSIWYG(What You See Is What You Get)をひねった言葉です。LyX はこれを掲げた最初の文書プロセッサでした。違いは一語、Get が Mean になったところにあります。WYSIWYG では「12 ポイント・太字・中央寄せ」と 見た目を直接 動かし、生の LaTeX では \section{...} と 命令を手で書きます。LyX はそのどちらでもなく、ある段落に「これは節見出しだ」「これは脚注だ」「これは定理だ」と 役割を視覚的に貼り付け、字の大きさも前後の空きもクラスファイルに任せます。だから空白キーを何度叩いても字間は広がりません——空きは意味から決まるものであって、押した回数から決まるものではないからです。
| 流儀 | 手で動かすもの | 画面に見えるもの |
|---|---|---|
WYSIWYG | 見た目そのもの(書体・字送り・字下げ) | ほぼ最終形。ただし構造は残らない |
LyX | 役割(見出し・定理・数式の構造) | 最終形の近似。役割は色と字送りで示される |
LaTeX | 命令そのもの(マークアップを手書き) | テキストだけ。組むまで結果は見えない |
.lyx ファイルの中身と、lyx2lyx という関門
LyX が保存するのは .tex ではなく、独自形式の .lyx です。バイナリではありません——中身は人が読める行指向のテキストで、先頭に「どのバージョンの LyX が作ったか」を書いた行、続いて \lyxformat という整数、\textclass article のようなクラス指定、そして \begin_header … \begin_body … \begin_layout と入れ子になった本文が並びます。LaTeX の命令をそのまま並べたものではないので、.lyx を直接 LaTeX として組むことはできません。
この \lyxformat の整数は、実務では地味に効いてきます。LyX は形式が変わるたびにこの番号を上げ、古い文書を開くときは lyx2lyx という Python 製の変換器を通して現行の形式へ引き上げます(逆に古い形式へ落とすこともできます)。だから 0.10 の時代の文書でも開けるのですが、その裏返しとして、新しい LyX で保存した文書を古い LyX で開くと拒まれます。「file is from a newer version of LyX and the lyx2lyx script failed to convert it」というエラーがそれで、共著者と LyX の版が揃っていないときに出ます。テキストである以上 Git に入れられますが、GUI 操作の結果として行が動くので差分は読みにくく、共同編集の窓口としては .tex ほど素直ではありません。
メニューにない指定は TeX コード(ERT)で逃がす
LyX に対応する UI がない指定は、Insert ▸ TeX Code で生の LaTeX をそのまま埋め込みます。この領域は ERT と呼ばれます——Evil Red Text(邪悪な赤い文字)の略で、昔の LyX が生の LaTeX を赤い文字で表示していたことに由来する渾名です。LyX 公式サイトには 2000 年 3 月付けの「A Brief History of ERT」という記事が残っていて、名前の由来と、生の LaTeX を折りたためるインセットに隠すという発想がどこから来たかが記録されています。渾名が公式の用語に昇格してしまった珍しい例です。
% Typical ERT: things LyX has no dialog for.
\setlength{\parindent}{0pt}
\renewcommand{\thefootnote}{\fnsymbol{footnote}}
\textcolor{red}{\rule{\linewidth}{0.4pt}}ERT のほかに、Document ▸ Settings ▸ LaTeX Preamble に生のプリアンブルを丸ごと貼る口もあります。ここが実は分かれ道です。学会や出版社から渡された .cls を使う場合、LyX がその環境を「役割」としてメニューに出すには、クラスに対応する レイアウトファイル(.layout)が要ります。用意されていれば快適ですが、無ければクラスの独自環境はすべて ERT で書くことになり、画面はみるみる赤くなって WYSIWYM の利点が消えていきます。LyX が向くかどうかは、多くの場合「使いたいクラスのレイアウトファイルがあるか」で決まります。
.tex への書き出しと、tex2lyx での取り込み
出力する段になると、LyX は .lyx を裏で LaTeX に変換してから組みます。エンジンは LaTeX(DVI 経由)・pdfLaTeX・XeTeX・LuaTeX から選べ、File ▸ Export ▸ PDF で PDF を、File ▸ Export ▸ LaTeX で .tex を得ます。ほかに XHTML・DocBook・EPUB・プレーンテキストへの書き出しもあります。LyX は生成した LaTeX を隠さないことを「LaTeX の透明性」として売りにしていて、書き出した .tex を別のエディタで仕上げる、という使い方は正規のルートです。
ただし、この道は 片道 だと思っておくのが安全です。逆向き、つまり既存の .tex を LyX に取り込むには tex2lyx を使いますが、込み入ったマクロや LyX が知らないパッケージは解釈されず、丸ごと ERT として取り込まれるか、手直しが要ります。結果として、書き出して手で直した .tex を LyX へ戻すと、直した部分が構造として理解されないまま赤い塊になって返ってくる、ということが起こります。往復(ラウンドトリップ)は成立しません。LyX を使うなら LyX で完結させ、.tex に出したらそこから先は .tex の世界で生きる——この一方通行を最初に決めておくと、締切前に慌てずに済みます。
日本語で使うときに必要になる設定
日本語は扱えますが、初期状態のままでは足りず、いくつか設定が要ります。基本は Document ▸ Settings で日本語向けの 文書クラス(たとえば jsarticle)を選び、出力エンジンをそのクラスに合うものに揃えること。文字コードには utf8-platex のような pLaTeX 向けの日本語エンコーディング の系統があり、CJK パッケージを使う系統と japanese パッケージの系統とで inputenc との相性が変わるので、組み合わせを揃えるのが肝心です。迷ったときの確実な情報源は、日本語コミュニティの TeX Wiki にある LyX の設定ページで、OS 別の手順がまとまっています。
結局のところ、日本語の PDF を出すには裏で pLaTeX 系か LuaLaTeX 系を走らせることになるので、LaTeX を直接書くときの事情がそのまま持ち込まれます。GUI が増えたぶんだけ、うまくいかないときに「どの層が壊れているのか」が見えにくくなる、という代償もあります。日本語で使うつもりなら、最初の 1 章を試しに作り、PDF と .tex の両方を書き出して確かめておく ことを勧めます。
LyX の使い方を覚える価値があるのは誰か
正直に言えば、LyX の使い方を覚えて得をするのは 構造のある長い文書を書く人で、しかも LaTeX の記法を覚えるつもりがない人 です。博士論文、技術文書、章立ての決まった報告書のように、見出し・定理・図表・相互参照が繰り返し出てくる文書では、役割を貼るだけで体裁が決まる仕組みが素直に効きます。数式を大量に含む原稿を、記法ではなくパレットで組みたい人にも向きます。逆に、組版の隅々まで自分で決めたい人、既存の生 LaTeX 資産をそのまま編集したい人、最新パッケージの細かな機能を多用する人には、遅かれ早かれ ERT の海が待っています。
- 向いている: マークアップを書かずに構造のある文書を作りたい。数式を点と打鍵で組みたい。ワープロから LaTeX 品質へ橋を渡したい。使いたい文書クラスのレイアウトファイルが用意されている。
- 向いていない: 組版を隅々まで自分で制御したい。既存の生 LaTeX 資産をそのまま編集・再利用したい。最新パッケージの細かな機能を多用する。共著者が
.texを直接編集する。 - 共同執筆の前に決めること: LyX で最後まで行くのか、途中で
.texに出して通常の LaTeX プロジェクトへ移すのか。移すなら、書き出した.texを一度手で組み、クラス・パッケージ・日本語エンジンが提出先で通ることを確かめておきます。
はじめて触るなら、完成原稿ではなく 1 章ぶんの型 を先に作るのが確実です。文書クラスを選び、タイトル・節・本文・数式・図表を一つずつ置き、PDF を書き出し、最後に LaTeX も書き出して眺める。この作業のあいだに「LyX の役割指定で済む部分」と「ERT に逃がす部分」の境界が見えてきます。境界がどこにあるかを知ってから本文を書きはじめると、締切近くになって組版の細部を詰める段になっても、慌てずに済みます。