LaTeX を試すのに、インストールは要りません。ブラウザでオンラインエディタを開き、アカウントを作り、十数行の原稿を貼って「Recompile」を押す——ここまで五分あれば足ります。しかも押した瞬間に動くのは、数千のパッケージが載った完全な TeX 環境です。このページは、その 最初の五分間 だけを扱います。ブラウザの向こうで何が起きているのか、最初のセッションは実際どう進むのか、そして最初に必ずぶつかる三つのこと——コンパイルの制限時間、使えるパッケージの範囲、原稿がどこに保存されるのか——を先に知っておくための案内です。サービスの比較や、クラウドと手元のどちらで書き続けるかという判断は別のページに譲ります。
「Recompile」を押したとき、ブラウザは何をしているのか
ほとんど何もしていません。組版はサーバ側で走っています。 ブラウザが送るのはソースの文字列だけで、向こう側には TeX Live がまるごと入ったマシンが待っていて、そこで pdflatex なり lualatex なりが実行され、できた PDF が返ってきて画面の右半分に表示される——それだけの仕組みです。つまりオンラインエディタは「TeX の簡易版」ではありません。手元にインストールするのと 同じエンジン、同じパッケージ、同じ出力 です。だから習ったことはそのままローカル環境に持ち越せますし、逆に、ローカルで動く原稿はたいていそのまま通ります。
実際にどのサービスを開くかは、この段階ではあまり重要ではありません。もっとも使われているのが Overleaf、日本語が初期設定のまま通るのが Cloud LaTeX、公開プロジェクトを無制限に作れる無料枠を持つのが Papeeria。ほかにも計算環境と一体になった CoCalc、TeXpage、Authorea などがありますが、どれを選んでも「ソースを書いて押すと PDF が出る」という体験は変わりません。まず一つ開いて、五分だけ触ってみる。 比べるのはそのあとで十分です。
% paste this in, press Recompile, and you have used LaTeX
\documentclass{article}
\begin{document}
Hello from the browser. Here is an equation:
\[ \int_0^1 x^2 \, dx = \frac{1}{3} \]
\end{document}最初のセッションは実際どう進むか
白紙から凝った設定を組み立てないこと が、最初の三十分でいちばん効くコツです。テンプレートか上の最小例を開き、本文を一段落だけ自分の文章に差し替え、コンパイルが通る状態をいったん保存します。そこから見出し、数式、図、参考文献の順に 一度に一つずつ 足していく。この進め方の利点は、壊れた瞬間に犯人が確定していることです。直前に足した一手を戻せば必ず直るので、原因を推理する必要がありません。逆に、最初から \usepackage を十行並べて書き始めると、最初のエラーがどれのせいか分からなくなります。
最初のエラーはたいてい二つのうちどちらかです。綴りを間違えたコマンドを書くと ! Undefined control sequence.、地の文に _ や ^ を書くと ! Missing $ inserted.——後者は「下付き文字は数式モードのものだ」という TeX の主張で、\_ と書くか $x_1$ のように数式に入れれば直ります。オンラインエディタはこのエラーを PDF の代わりに一覧で見せてくれますが、必ず一番上のエラーから直してください。TeX のエラーは連鎖するので、下の方に並んでいるものは最初の一件の余波であることが多く、先頭を直すと道連れで消えます。それでも PDF が古いままなら、キャッシュを捨てて全体を組み直す「Recompile from scratch」に相当するメニューを探します。
最初にぶつかる壁——コンパイルの制限時間
サーバは一人の原稿のために無限に時間を割けないので、無料枠には コンパイルの制限時間 があります。Overleaf の公式ドキュメントによれば、2026 年時点で無料プランは 10 秒、有料プランは 240 秒。十数行の練習では絶対に届きませんが、TikZ で描いた重い図、何十枚もの高解像度画像、pgfplots で数万点を打つグラフ、そして長い学位論文では現実に超えます。超えると PDF は出ず、タイムアウトした旨が表示されます。
対処は決まっています。まず 画像を縮める——投稿用の 300 dpi 画像を原寸のまま何十枚も置くのが、超過の最大の原因です。次に \documentclass[draft]{article} や各サービスの draft/fast モード で画像の描画を省く。図が重いなら、TikZ の図を一度だけコンパイルして PDF に書き出し、以後は \includegraphics で読み込む(external ライブラリがこれを自動化します)。それでも足りなければ、章ごとにファイルを分けて \includeonly で作業中の章だけを組む。そして、この壁に本気でぶつかる頃には、たいてい手元にインストールする時期が来ています。
パッケージはどこまで使えるのか
ほぼ全部です。 主要なサービスは TeX Live をまるごと載せているので、CTAN にあるものは \usepackage と書けばだいたい通ります。手元のインストールでよくある「パッケージが入っていない」という詰まり方は、オンラインではまず起きません。引っかかるのは別の三箇所です。ひとつは 外部プログラムを呼ぶパッケージ——minted は構文強調のために Python の Pygments を起動するので、-shell-escape を有効にする設定が要ります(サービスによって可否と手順が違います)。ふたつめは 自前のフォント。OTF や TTF を自分でアップロードし、fontspec で読み込む必要があり、当然コンパイラも XeLaTeX か LuaLaTeX に変えます。みっつめは TeX Live の版。サービス側の版が古ければ、新しいパッケージの新しい機能は使えません。
サーバをまったく使わない道も、いまは実在します。WebAssembly でコンパイラごとブラウザに持ち込む 方式で、代表例が SwiftLaTeX です。pdfTeX と XeTeX を WebAssembly に移植して端末内で走らせ、必要なパッケージだけを CTAN のミラーから取りに行きます。サーバ往復がないので制限時間の概念がなく、原稿が外に出ないという利点もあります。ただしパッケージの網羅度と実績は完全な TeX Live には及ばず、まず試す 段階では素直にサーバ型を選ぶのが早道です。
書いた原稿はどこに置かれているのか
自分の PC ではなく、サービス提供者のサーバの上です。 当たり前のようでいて、最初の五分では意識しにくい事実です。実務上は三つの含意があります。第一に、未発表の研究や機密を含む原稿 をどこに置くかは、所属機関の規定に照らして判断すべき問題になります。第二に、ソースを取り出す手段を早い段階で確認しておく こと——PDF のダウンロードはどこにでもありますが、.tex と画像を含む一式を ZIP・Git・Dropbox で持ち出せるかはサービスによります。試用のつもりで書き始めた原稿が本番になるのはよくあることで、そのとき出口がないと困ります。第三に、アカウントを失えば原稿も失われるので、節目ごとに手元へ落としておく のが安全です。
もう一つ、日本語で書くつもりなら 最初の五分のうちに確認しておくべき設定 があります。多くのサービスの既定コンパイラは pdfLaTeX で、これは日本語を組めません。何も設定せずに日本語を打つと、エラーになるか、文字が消えた PDF が出ます。メニューで コンパイラを LuaLaTeX に切り替え、ltjsarticle か jlreq を使えば通ります。Cloud LaTeX のように最初から日本語が通るサービスもあるので、日本語が主なら選択の基準になります。国内の学会誌で多い pLaTeX 系の経路を使う場合は、platex と dvipdfmx を順に呼ぶ latexmkrc をプロジェクトに置く必要があり、これは五分では終わりません(手順は Overleaf の解説ページにあります)。いずれにせよ、本文を書き始める前に 短い日本語一文でコンパイルを通しておく ことです。
% first set the compiler to LuaLaTeX in the service menu
\documentclass{ltjsarticle}
\begin{document}
こんにちは、\LaTeX。数式も書けます: $e^{i\pi}+1=0$
\end{document}- 投稿先が決まっているなら、サービスのテンプレートギャラリーで公式テンプレートを探してから書き始める。IEEE・ACM(
acmartクラス)・Springer Nature の LNCS などは公式版が置かれており、白紙より確実に速い。学会から.styを渡されているなら、.texと同じ場所にアップロードすれば読み込まれる。 - 日本語なら、本文を書く前に短い一文でコンパイルを通す。既定の
pdfLaTeXでは組めない。 - PDF だけでなく
.texと画像の一式を ZIP・Git・Dropbox で持ち出せるか、最初のうちに確認しておく。 - エラーは一番上から直す。TeX のエラーは連鎖するので、下の方は先頭を直すと消えることが多い。
- 練習で制限時間に届くことはまずないが、画像を大量に貼り始めたら、まず画像の解像度と寸法を疑う。