Overleaf の無料プランがコンパイルに与える時間は 10 秒、有料プランは 240 秒 です(Overleaf 公式ドキュメント、2026 年 8 月時点)。この 24 倍の差が、LaTeX をクラウドで書き続けるか手元に環境を持つかという判断の、いちばん分かりやすい入口になります。ただし本当の論点は速度ではありません。原稿がどのサーバに置かれるのか、TeX Live のバージョンを自分で選べるのか、サービスが止まったとき原稿を持ち出せるのか——このページは、はじめて触る人向けの案内ではなく、すでに書いている人の「クラウドか手元か」 を扱います。Overleaf がなぜ自分のサーバに建てられるのか、という 2017 年の出来事から始めましょう。
Overleaf がオープンソースなのは 2017 年 7 月の合併のおかげ
2017 年 7 月 20 日、Overleaf は競合の ShareLaTeX(Scribtex Limited)を買収しました。 そのとき公開された告知にはこう書かれています——「ShareLaTeX のエディタが新しいプラットフォームの中核になる」、そして「公開されている ShareLaTeX のコードベースはすべてオープンソースのまま、開発も続ける」。この二つの約束が、今日の状況をそのまま説明します。Overleaf 本体は WriteLaTeX という名前で 2012 年末に John Hammersley と John Lees-Miller が始めたサービスで、2015 年に Overleaf へ改称。合併後の「Overleaf v2」は ShareLaTeX の編集エンジンの上に建てられ、そのオープンソースの系譜がいま overleaf/overleaf として AGPL v3 で公開され続けています。
この一件が実務に効くのは、「クラウドを選ぶ」ことが必ずしも「他社に預ける」ことを意味しない からです。Cloud LaTeX も Papeeria もホスティング専業で、自分のサーバに建てる道はありません。主要サービスのなかで自前運用ができるのは事実上 Overleaf だけで、その理由は技術ではなく 2017 年の合併にあります。逆に言えば、クラウドか手元かの二択に見える問題は、実際には 「他社のサーバ」「自分のサーバ」「自分の PC」 の三択です。以下ではまず二択のほうを数字で詰め、最後に三つ目の道を扱います。
Overleaf の無料プランでは何ができないのか
効いてくる制限は三つ、コンパイル時間・プロジェクトの容量・Git です。無料で書けるページ数に上限はありませんし、プロジェクト数も無制限ですが、公式ドキュメントが挙げる数値のうち実務にぶつかるのはこの三つに集約されます。とくに Git 連携が有料機能である点は見落とされがちで、「無料で始めて、あとから履歴ごと手元へ引き上げよう」という計画は成立しません。下表は Overleaf のドキュメントに載っている数値です(2026 年 8 月時点)。
| 項目 | Overleaf の値(2026年8月時点の公式ドキュメント) | 実務でどう効くか |
|---|---|---|
compile timeout | 無料 10 秒 / 有料 240 秒 | 長い学位論文や重い TikZ で最初に当たる壁 |
editable material | 1 プロジェクトあたり 7 MB、テキスト 1 ファイル 2 MB | 巨大な .bib や生成した表を貼り込むと届く |
uploads | 1 ファイル最大 50 MB、1 プロジェクト最大 2000 ファイル | 高解像度の図版を大量に持つ原稿で問題になる |
project size | 500 MB 未満を推奨。Git / GitHub 連携時は 100 MB 未満を推奨 | 図版を版管理に載せるなら早めに間引く |
collaborators | Standard と Student で招待 10 名、Pro は無制限 | 共著者が増える研究室では実際に効いてくる |
git clone | 有料機能。Server Pro 4.0 以降でも利用可 | 履歴ごとの持ち出しは無料では不可。出口戦略に直結 |
クラウドで TeX Live のバージョンを固定できるか
Overleaf ならできます。プロジェクト単位で TeX Live の年を選べる仕組みがあり、公式ブログが記事にしている範囲でも 2016 年版まで遡れます。 新規プロジェクトは既定でサーバ上の最新版を使うので、投稿先が特定の年を要求する場合は明示的に切り替えます。この一点はクラウドを実務で使ううえで重要で、「Overleaf では通るのに手元では通らない」の原因の多くはエディタではなく年の違いです。切り替えの画面操作そのものは Overleaf のページが扱っています。
他のサービスはやり方が違います。Cloud LaTeX は完全版の TeX Live(安定版と開発版)を提供する形で、ユーザーが年を選ぶのではなくサービス側が更新します。日本語の投稿規程はしばしば「TeX Live 20xx で組んだこと」を求めるので、この差は無視できません。再現性を最優先するなら、クラウドの年選択よりコンテナのイメージ digest のほうが強い——これは事実として押さえておくべきで、学位論文や数年後の再現が求められる仕事では、クラウドで書いて最終ビルドだけコンテナに任せる、という併用が現実的な落としどころになります。
Cloud LaTeX と科研費テンプレート —— 日本語で書く人の選択肢
Cloud LaTeX の売りは、日本語が設定なしで組めることと、100 を超えるテンプレートに 科研費 の申請書式が含まれていることです。 運営はアカリク株式会社。Overleaf で日本語を組むには既定の pdfLaTeX から LuaLaTeX へ切り替えるといった一手が要りますが、Cloud LaTeX はそこが初期状態で済みます。加えて Dropbox 同期と VS Code 連携があり、ブラウザだけに閉じ込められない点も実務では効きます。科研費や学振の申請書は毎年書式が変わるため、テンプレートが更新され続けているかどうかが実質的な価値になります。
三つ目の選択肢である Papeeria は、公開プロジェクトが無制限に作れる恒久無料枠を持ち、非公開プロジェクトは無料では 1 つまでという設計です。Git 連携もありますが、無料で扱えるのは 公開リポジトリのみ——非公開リポジトリは有料プランです。ここまでを乱暴にまとめると、日本語中心なら Cloud LaTeX、共著者が多くテンプレート駆動なら Overleaf、最初から公開前提なら Papeeria。ただしこれは出発点であって、次の二節(機関アカウントと出口戦略)のほうが長期的には効きます。
大学の Overleaf 契約(Overleaf Commons)を確認する
有料プランを個人で買う前に、所属機関がサイトライセンスを持っていないか確かめてください。 Overleaf Commons は機関が組織全体に Overleaf を提供する契約で、加入していれば構成員は全員が有料機能——長いコンパイル時間、共著者枠、変更履歴、Git 連携——を使えます。登録は多くの場合、機関のシングルサインオンか、機関ドメインのメールアドレスを確認するだけで完了します。実際に多くの大学が導入しており、たとえば UCLA は 2025 年 4 月 7 日から在籍する学生・教員・職員に Overleaf Professional アカウントを提供すると告知しました。まず所属機関の情報システム部門のページを検索するのが、いちばん費用対効果の高い一手です。
ただしサイトライセンスには 期限つきの身分に紐づく という性質があります。加入は所属の確認によって成立するので、卒業・修了・異動でその確認が切れると、有料機能も切れます。修士論文を機関アカウントで書き上げ、卒業後に共著者から修正を頼まれて開いたら履歴が見られない——という事故は、実際に起こりうる筋書きです。だから共同研究のプロジェクトは、個人アカウントではなく研究室やプロジェクトが管理するアカウントを所有者にする のが定石で、卒業前に原稿一式を書き出しておくのが最低限の備えです。
未公開の研究をクラウドに置いてよいか
技術の問題ではなく、規程の問題です。 どのサービスも通信の暗号化やアクセス制御は説明していますが、判断の根拠になるのは所属機関の情報管理規程、研究費の条件、共同研究の秘密保持契約のほうです。「データを組織外に出さないこと」と書かれているなら、サービスの品質がどれほど高くてもホスティング型は選べません。逆にその制約が無いなら、クラウドの利点は大きい。以下は、規程が許す前提での比較です。「どちらが優れているか」ではなく、何を手放して何を手元に残すか の表として読んでください。
| 観点 | ホスティング型のサービス | 手元のインストール |
|---|---|---|
where the source lives | 提供元のサーバ。規程しだいでは、この一行だけで選択肢から外れる | 自分のディスク。持ち出しの心配が最初から無い |
maintenance | 不要。更新はサーバ側で行われる | 自分で更新し、パッケージを管理する |
devices and network | ブラウザのある端末ならどれでも。基本的に通信が要る | インストールした機械だけ。回線が無くても動く |
collaboration | 同時編集がその場で使える。プランに応じた人数の上限あり | Git などで自分で組み立てる。人数の上限は無い |
compile ceiling | プランの上限まで。Overleaf 無料は 10 秒、有料は 240 秒 | 上限なし。機械の速度がそのまま上限 |
version pinning | サービスが用意した範囲で。Overleaf は年を選べる | パッケージもフォントも自由。digest 固定まで可能 |
出口戦略 —— 原稿を履歴ごと持ち出せるか
ZIP での書き出しはどのサービスでもできます。問題は履歴のほうです。 Overleaf でプロジェクトを丸ごと履歴つきで引き上げる git clone は有料機能で、無料アカウントでは使えません。Cloud LaTeX は ZIP 出力に加えて Dropbox 同期を備えるので、最新版のコピーは常に自分のディスクにも置けます。Papeeria は Git を前提に設計されていますが、無料枠で扱えるのは公開リポジトリだけです。結論としての目安は一つ、git clone で出られるサービスを選ぶこと。サーバに何が起きても、原稿とその履歴は手元に残ります。
この出口が、そのまま CI への入口 にもなります。Overleaf のプロジェクトを GitHub リポジトリと同期しておけば、push のたびに GitHub Actions がクリーンな TeX Live で組版し、ブラウザの外で PDF がビルドできているかを確認できます。クラウドの快適さを残したまま「本当に再現できるか」を機械に検証させる形で、共著論文では特に効きます。ただし前述のとおり Git / GitHub 連携は有料機能なので、この構成は無料アカウントでは組めません。日々の運用としては、次の三つを決めておけば大きな事故はほぼ防げます。
- 所有者を先に決める。 共同研究のプロジェクトは、個人アカウントではなく研究室やプロジェクトが管理するアカウントを所有者にする
- 環境を README に書く。 どのサービスの、どのコンパイラ、どの TeX Live 年で組んでいるかを一行で残す。手元やコンテナで再現するときに必要になる
- 提出前にまとめて書き出す。 PDF・ソースの ZIP・
.bib・図版の元データを、日付をつけた一つのフォルダに固めておく
Overleaf を自分のサーバに建てる(セルフホスト)
三つ目の道です。Overleaf の中核は overleaf/overleaf として AGPL v3 で公開されており、これが Overleaf Community Edition(CE)です。 研究室や企業は、商用の overleaf.com とは無関係に、自分のサーバで Overleaf を運用できます。導入の推奨経路は公式の Overleaf Toolkit。Docker Compose のスタックで、Overleaf 本体とデータベースの MongoDB、キャッシュの Redis をまとめて立ち上げます。GitHub から overleaf/toolkit を取得し、初期化して起動すれば、自分のブラウザから使える Overleaf ができあがります。一度組んでしまえば、インターネットから切り離した閉域でも動きます。
# Bring up your own Overleaf with the official toolkit.
git clone https://github.com/overleaf/toolkit.git
cd toolkit
bin/init # generates the config/ directory
bin/up # starts Overleaf + MongoDB + Redis via Docker Compose得られるのは データの支配権と外部への非依存 です。原稿は自組織のサーバから出ませんし、障害にも値上げにも巻き込まれません。対価は運用そのもの——サーバの用意、バックアップ、TeX Live の更新、セキュリティはすべて自分の仕事になります。そしてもう一つ、無視できない制約があります。無料の Community Edition には、コンパイルを隔離する「Sandboxed Compiles」がありません。 ユーザーの LaTeX コンパイルはコンテナと同じ権限で走り、そのファイルシステムやネットワークに届いてしまいます。公式リポジトリの README は、CE を「すべての利用者が信頼できる環境向け」と明記しています。
公開に耐える運用や、コンパイルの隔離、LDAP / SAML によるシングルサインオン、変更履歴(track changes)といった企業向け機能が要るなら、有償の Server Pro が用意されています。実務の目安はこうです——信頼できる少人数の研究室なら CE で足りる。学内全体に開くなら Server Pro を検討する。 そして忘れてはいけないのが、自前運用を選んだ時点でクラウドの利点だった「保守しなくていい」が消えることです。三択の最後の道は、いちばん自由で、いちばん手間がかかります。