TeX を Web で(Overleaf / Cloud LaTeX)

TeX は手元のパソコンに入れる——それが当たり前ですが、唯一の道ではありません。ブラウザで開くサービスを「自分の TeX 環境」として、ローカルへのインストールの代わりに据えることもできます。このページはインストールの選択肢としての Web を扱います。どんなときに Web が正解でローカルが正解か、主要サービスの位置づけ、そして Overleaf を自分のサーバで動かす「セルフホスト」までを見ていきます。

ブラウザでただ「試す」話、つまりオンラインエディタの仕組みや初心者向けの始め方は、別ページ「Web ブラウザで試す」にまとめてあります。ここでは重複を避け、ローカルにインストールするか、Web に任せるか という判断を軸に進めます。

Web を「インストールの代わり」と考える

ローカルの TeX LiveMiKTeX を入れると、TeX エンジン・数千のパッケージ・フォント・ビルドツールがすべて自分のディスクに乗ります。Overleaf や Cloud LaTeX のようなオンラインサービスは、その一式をサーバ側に用意 したものです。あなたのブラウザはソースを送り、返ってきた PDF を表示するだけ。つまり Web サービスは、機能の上では「他人が運用してくれている TeX Live」とみなせます。

この見方が大事なのは、Web を一時しのぎではなく 常用の環境 として選べるからです。研究室の共用 PC でもタブレットでも、自宅と職場でも、ブラウザさえあれば同じ環境に入れます。OS の更新でビルドが壊れる心配もありません。一方で、その環境の中身(エンジン・パッケージ・フォントの版)を細かく決めているのはサービス側で、あなたの原稿も相手のサーバに置かれます。判断は次の節の表に集約しました。

Web が向く場面、ローカルが向く場面

どちらが優れているという話ではなく、何を手放し、何を握りたいか の違いです。保守の手間とどこでも使える身軽さを取るなら Web、制御と機密と速度の上限を取るならローカル、というのが大枠です。

観点Web サービスローカルインストール
Maintenance保守は不要。更新・追加はサーバ側自分で更新・パッケージ管理
Devicesブラウザがあればどの端末でもインストールした機械だけ
Collaboration同時編集が容易(本領)Git などで自前運用
Compile time無料枠は制限時間あり上限なし(機械の性能次第)
Network原則として接続が必要オフラインで動く
Your source第三者のサーバに置かれる自分のディスクに留まる
Pinning versionsサービスの提供範囲内でパッケージもフォントも自由

最初の一通、授業の課題、共著論文くらいなら Web で十分なことがほとんどです。逆に、長い学位論文や重い TikZ 図でコンパイル制限時間(2026 年中ごろ時点で Overleaf 無料枠は 10 秒、有料は 240 秒)を超える、未公開・機密の研究を外部サーバに置きたくない、特定の TeX Live やパッケージの版に固定して再現性を担保したい——こうした要求が出てきたらローカルへ。両取りも実用的で、Cloud LaTeX を Dropbox 経由で手元のフォルダとつなぐ運用は無料で使えますし、Overleaf の Git/GitHub 連携も有料プランで利用できます。詳しくはローカルインストールのページへ。

主なサービス(手短に)

代表的な三つを位置づけだけ示します。仕組みや始め方の詳しい解説は「Web ブラウザで試す」に、各サービスの掘り下げは個別ページにあります。

  • Overleaf — 事実上の標準。豊富なテンプレートとリアルタイム同時編集が強み。既定のエンジンは pdfLaTeX で日本語には設定がいる(LuaLaTeX + ltjsarticle が手早い)。後述のとおり唯一オープンソースで、自分のサーバでも動かせる。
  • Cloud LaTeX — 日本のアカリクが運営。日本語が初期設定のまま組める のが最大の利点で、国内の論文・学会向けに向く。Dropbox 同期や VS Code 連携も。
  • Papeeria — 公開プロジェクトを無制限に作れる恒久無料枠を持つ。Git 連携や Markdown 混在に対応。無料枠は非公開プロジェクトが 1 つに限られる。

ざっくり選ぶなら、日本語中心なら Cloud LaTeX大人数での同時執筆やテンプレート重視なら Overleaf公開前提やチームで安く始めるなら Papeeria。比較と選び方は試用ページに譲ります。

出口戦略——原稿を持ち出せるか

Web を「インストールの代わり」と決めたら、入口と同じくらい 出口 も気にしておくと安全です。サービスが値上げしても、停止しても、自分の原稿はいつでも .tex の素のテキストとして取り戻せるか——これが web 版 TeX で唯一気をつけるべきロックインの問題で、各サービスの設計に差があります。Overleaf は無料枠でもプロジェクトを ZIP で一括ダウンロードでき、テキスト中心なので別環境への移行は容易ですが、バージョン履歴は無料枠では過去 24 時間 しか戻れず、git clone で全履歴ごと取り出せる Git/GitHub 連携は 有料プラン専用 です。Cloud LaTeX は ZIP 書き出しに加え、Dropbox 同期 を無料で使えるため、手元のフォルダに常に最新コピーが残る運用ができます。Papeeria は Git 連携が無料枠から使え、リポジトリとして外に置く前提に作られています。一般則として、git clone で持ち出せるサービスを選んでおけば、サーバ側に何が起きても原稿と歴史は手元に残ります。

Web を常用するときの運用ルール

Web を主環境にするときは、インストール作業の代わりに 運用の約束 を決めます。だれがプロジェクトを所有するか、どの TeX Live 年版とコンパイラを使うか、提出前にどこへソースを退避するか。これを決めないまま共著を始めると、所有者の卒業・退職、無料枠の制限、履歴の不足が後から問題になります。

  • 共同研究では、個人アカウントではなく研究室・プロジェクト管理のアカウントを所有者にする。
  • 最終提出前に、PDF、ソース ZIP、.bib、図表元データを同じ日付のフォルダへ退避する。
  • ローカルで再現する可能性がある原稿では、Overleaf / Cloud LaTeX のコンパイラ設定を README に写す。

Overleaf を自分で建てる(セルフホスト)

ここからが、ただ使うだけの話を超える部分です。Overleaf はオープンソースAGPL v3)で、その本体は Overleaf Community Edition(CE) として公開されています。だから研究室や企業が、商用の overleaf.com に頼らず 自前のサーバで自分たちの Overleaf を運用 できます。Cloud LaTeX や Papeeria にはこの選択肢はなく(ホスティング専業)、セルフホストできる主要サービスは実質 Overleaf だけです。

導入は Overleaf Toolkit という公式の手順が推奨です。これは Docker 上で、Overleaf 本体・データベースの MongoDB・キャッシュの Redis をまとめて立ち上げる Docker Compose 構成。GitHub の overleaf/toolkit を取得して初期化し、起動すれば、ブラウザから入れる自前の Overleaf ができあがります。初期設定が済めばインターネット接続なしの エアギャップ運用 も可能です。

terminal
# Overleaf Toolkit で自前サーバを建てる(概略)
git clone https://github.com/overleaf/toolkit.git
cd toolkit
bin/init      # 設定ファイル (config/) を生成
bin/up        # Docker Compose で Overleaf + MongoDB + Redis を起動

セルフホストが買うのは データの主導権外部への非依存 です。原稿はすべて自分たちのサーバに留まり、サービス停止や料金改定に左右されず、組織のネットワーク内で完結できます。半面、運用コストは自分持ち——サーバの用意、バックアップ、TeX Live の更新、セキュリティ対応まで、ぜんぶ自分たちで面倒を見ることになります。

もうひとつ重大な注意があります。無償の Community Edition には、コンパイルを隔離する「Sandboxed Compiles」がありません。つまり利用者が走らせる LaTeX のコンパイルは、コンテナと同じ権限でファイルやネットワークに触れられてしまうため、CE は 全利用者を信頼できる環境 向けです。不特定多数に開く運用や、隔離・SSO(LDAP/SAML)・変更履歴(track changes)など企業向け機能が要る場合は、有償の Server Pro が用意されています。小さな研究室の内輪なら CE、大学全体に開放するなら Server Pro、という切り分けになります。